
序章
今年の夏もおかしかった。
地球温暖化以降、まともな夏はもう期待薄なのだろうか。。。
日本列島は西でも東でも連日三十五度を超える猛暑が続き、なぜか九州、中国、中部では一時間百ミリの猛烈な豪雨がとまらない。
反対に東京はぜんぜん雨のない夏で、打ち水をした歩道も数分で元通りからからに乾いてしまう。
東京では誰もが幽霊のようにふらふらになって、午後の日ざしのなか汗をしぼって歩いていた。
連日35度超える猛暑だと何もしなくても汗をかく。
何もしなくても疲れる。
まともなサラリーマンは濡れたゾンビみたいに街中を徘徊して、一日を勤める。
真夏の仕事終わりのビールも最高にうまいが、イカれた夏も終わり、季節が変わると、食の変化が起きる。
その季節にあった旬な食べ物があるように、どこの家庭にも定番のおかずメニューがある。
めぐみとの出会い
おれが今年の冬に出会ったその女の名前はめぐみといった。
めぐみとはいきつけのバーで知り合った。
待ち合わせの女にドタキャンされたおれはひとりで余白の時間をつぶしていた。
話し相手は幼馴染がやっているバー。
なんでも親から五百万借金して、開店にこぎつけたというすねかじりのボンボン。
二時間しっかり愚痴をいい、帰ろうとしたとき、ツイードのジャケットに雪のように白いマフラー、くるぶしがみえるくらい短いグレイのパンツをはいた女性が店内に入ってきて、カウンターで一人で飲み始めた。
すねかじりのボンボンはさんざん愚痴を聞かされて憐れんでいたのだろうか、おれに視線で合図を送る。
普段ならナンパなんてしないが、その日は飲みすぎたせいもあり、声をかけた。
めぐみは仕事で東京に来ていて、その日は任されたプロジェクトがうまくいったみたいで気分が高揚していた。
本当は同僚と仕事の達成のお祝いをしたかったみたいだったが、社内での付き合いはじゃれあいのきっかけをつくると思っているみたいで、孤高の女性を演じているといった。
誰かに達成の喜びを打ち明けたかったところに、おれの誘い。
距離が縮まるのも早かった。
めぐみの話を一時間ほど聞いて、おれたちは外に出た。
歓楽街のネオン。
ブラザーみたいに寄ってくる黒人の物売り。
いつもは鬱陶しいと感じるこの背景でも女性を連れて歩いていると堂々としてられる。
めぐみは明日の朝が早いからと今日は帰るという。
そのかわり話を聞いてくれたお礼に明日また会いたいといった。
女性のていのいい常套句だとおもったが、意外にめぐみは酒が強かった。
一時間ほどで焼酎のボトルを三本あけていた。
女性の手前先につぶれるわけにはいかなかったので、強気でいたが、目の前の景色はグルグルとまわっていた。
しっかりとろれつが回っていたのかも自信がなかったのだ。
めぐみはおれのスマホをとりあげて、なにか操作して、その場は別れた。
その後、おれは家までの帰路をどうやって戻ったのかは覚えていない。
翌日
めぐみからお礼がしたいと律儀に連絡があったのは、次の日の午後二時過ぎ。
その日は曇り空で、やたらと寒い一日だった。
北海道では零下三十度を記録したという。
東京でも気温はぎりぎり二度くらいで、日陰には氷が残っていた。
「今日の夜、空いてるよね? 昨日いっぱいお話聞いてくれたから、今日は私の手料理ごちそうしてあげる」
なぜかおれのスマホにはめぐみの連絡先が登録されていた。
まあ知らない男の番号よりはましだから気にもとめなかった。
「夜は大丈夫。どこにいけばいい?」
それからめぐみは住所を言った。
待ち合わせ時刻の十九時五分前。
おれはめぐみにきいた住所をたよりにその場所に向かった。
言われた住所には部屋番号もあったので、 めぐみが借りているアパートなのだろう。
昨日知り合ったばかりの男を次の日自宅に招き入れる。
とんとん拍子とうまくいきすぎてるような気はしたが、男の性には逆らえなかった。
オートロックの自動ドアを通り抜け、エレベーターで三階に。
めぐみの部屋は角部屋だった。
インターホンを鳴らすとめぐみはすぐにでてきて、おれを部屋にいれた。
めぐみは仕事が終わって帰ってきたばかりなのか黒い細身のスーツを着ていた。
「いきなりでびっくりしたでしょう。どうしても一緒に食べたかった料理があってね」
そういってめぐみは上着をクローゼットにしまうと、エプロンを腰に巻いて、キッチンにむかった。
「そこのソファーにでも座ってゆっくりくつろいでてよ。すぐに支度するから」
おれはいわれるままにめぐみにしたがった。
十畳くらいのフローリングでワンルーム。
テレビはなく、ベッドと、デスクのうえにノートパソコンがあるくらいで、女の子の部屋にしては意外と質素な部屋だった。
「私料理作るの好きなんだけど、いつもひとりで食べていて寂しかったんだ。だから今日はいっぱい食材買ってきたからね」
おれはめぐみのタイプにあてはまったのだろうか。
まるで恋人同士の会話だった。
おれの鼻もしぜんとひろがる。
ぶり大根
「はらぺこだから、楽しみだよ。ところでなに作ってるの?」
「ぶり大根」
誰にでも得意分野ってあるよな。
その分野においては異常に知識豊富で、その蓄えた知識を胸を張って話したくなるような自己満足の内容。
昨夜めぐみは料理が好きだと言っていた。
よほど料理に関しては切磋琢磨し、努力したのだろう。
めぐみは饒舌に語り出す。
「ぶりの旬は冬なんだ。寒くなれば寒くなるほど脂がのって、ぶり本来の旨みがでてくるんだよ。正月あたりでピークをむかえて、手軽に簡単に作れるのもぶりの醍醐味かな。ぶりの刺身もおいしいし、しゃぶしゃぶにしてもおいしいよ」
楽しく話すめぐみがキッチンに立っていた。
喋りながら器用に手を動かす。
本当に料理を作るのが好きなのだろう。
料理教室の先生みたいだ。
「でもこの時期のぶりは旬だから値段も結構するんだよね。腹身と背身であぶらの身がちがうんだけど、たいていの魚は腹の部分にあぶらがのって、かまの部分は値段が高いんだけど、安くしあげたいのならぶりのあらを使った料理がおすすめかな。それぞれ好みはあるだろうけど、ぶりのあらでも刺身以外で食べるなら、切り身よりもあぶらのったあらのほうが私は好きかな」
女性が自信満々に満ち溢れて得意なことを話すときの笑顔はとてもかわいいものだ。
おれはその笑顔をもっと近くでみたくなった。
ソファーから腰を上げ、キッチンにいるめぐみに近づいた。
「どうしたの?もうすぐできるから、座ってくつろいでてよ」
「おれもなにか手伝うことないかなと思って」
「いいよ。今日はお礼だって言ったでしょ。昨日は私の話に付き合ってもらったんだから、今日は私になにかさせてよ」
めぐみはそういって、大根の皮を器用にむき、半月切りにしていく。
無駄のないスムーズな動きにおれはただみているだけだった。
めぐみは鍋にいれたお湯が沸騰したのを見計らって切っておいたぶりあらを鍋にいれる。
一分ほど湯通しするとぶりの色がかわって、ざるでぶりあらを取り出したあと、灰汁を流水で流して、となりの圧力なべにうつす。
圧力なべには昆布を敷き、ぶりあらに水を加えて、煮たせていた。
手際の良さにおれは感心する。
「手慣れたもんだね。誰に料理を教わったの?」
「お母さん。うちはね早くにお父さんが死んで、一人娘の私を女手ひとつで育ててくれたんだ。おかあさんも料理が好きで、私にいっぱいおいしい手料理を食べさせてくれたんだ。私がおいしいよというとおかあさんはいつも笑って、わたしの頭をなでてくれた。だからわたしもお母さんにわたしの料理を食べてもらって、おいしいよといってもらいたいから料理を頑張って覚えたんだ」
誰かの為になにかを頑張る。
それが大切な人ならなおさらその気持ちは強い。
「この時期のぶりはあぶらがのっていてぶり本来のうまみだけでもとってもおいしいんだけど、ひと手間加えるだけでまた別のぶりの味を引き出すこともできるんだよ」
めぐみはそういって、沸騰した圧力なべの火を弱め酒と生姜を少量加えた。
それから浮いてきた灰汁を取り除いていく。
半月に切った大根とみりんを加え、さらに煮たせる。
突然の別れ
浮いてくる灰汁を取り除きながら、めぐみはいう。
「今の仕事のアフターフォローがすんだら、私地元の会社に戻らないといけないんだ。そういう契約で東京にきているから」
恋の始まりも突然だが、恋の終わりも突然だった。
昨日出会ったばかりだが、おれはめぐみのことを好きになりかけていた。
突然の告白に何も言えずにいるとめぐみは続けた。
「私の仕事って、出張が多いんだよ。今回は東京だったけど、前回は北海道。その前は熊本。全国から依頼がくるからその場所に行って、仕事をしないといけないんだ」
知らない土地でばかり仕事をする。
仕事の内容はどこに行っても変わらないのかもしれないが、環境は変わる。
人間関係もそのたびに一から構築しないといけない。
おれにはそんな経験がないからその心境はわからないが、大変な仕事をめぐみはしている。
「圧力なべってすごいよね」
そういってめぐみは分銅型の圧力なべをみる。
「空気や液体が逃げないように密封した容器を加熱して、大気圧以上の圧力を加えて、封入した液体の沸点を高めることで比較的短時間でおいしく調理できるんだよ。水の沸点は圧力が高くなるにつれて上昇するから圧力なべの内部は沸騰前でも沸点に到達してる。この高温や高圧により、野菜類ならば細胞壁が早く破壊され、肉類ならたんぱく質や繊維が早く分解されるため、短時間で調理ができる。それって凄いことだよね。人間関係をつくるのにもこんな便利な機械があったらいいのに」
常に周りは知らない人ばかり。
そのなかでめぐみは仕事をしている。
確かにどんなことをするにしてもそれは料理に類している。
食材を探す。
見つけた食材を調理する。
いろんな具や調味料が混ざり合ってひとつの料理が完成するのだ。
その味をつくるのは作り手のさじ加減によるものだ。
対面する相手によって十人十色の味があるように、それに対応したタスクを作らなければならない。
灰汁を取り終えためぐみは砂糖と醤油を圧力なべに加えて、しっかりと蓋をした。
「あとは加熱して出来上がり。もうすぐできるよ。そっちに座っててよ。飲み物はビールでいい?」
「ありがとう。そっちに座ってるよ」
めぐみが出来上がった料理をはこんでくる。
シーザーサラダ、きんぴらごぼう、ブリ大根、ブリの刺身、鶏肉とシメジの炊き込みご飯。
どれもうまかった。
そのなかでもやはりめぐみが冬の旬だからと勧めてきたブリ大根は 、大根にしっかりとブリの旨みがしみ込んでいて、絶品だった。
明日にはめぐみはまた仕事で全国を飛び回ることになるのだろう。
もしかしたらもう会えなくなるのかもしれない。
それでもめぐみが作ったこのブリ大根の味は忘れることはないし、またどこかでブリ大根を食べることがあったら、きっとおれはめぐみのこの味を思い出すことだろう。